-kemurikikaku-

ママチャリで駆けずり回る小っちゃいオッサンの日記

自問自答もない日々

  

 

 

桜は知らぬ間に満開になっていて、はたと気候の変化に気付いたりする。

 

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何分咲きとかの状態かもだけど。

 

 

桜は日本らしいと思ってしまう控えめかつ、主張のある色合い。

 

この花に魅了された昔の日本人を想像して、今から見ると、娯楽の少ない時代の花見は楽しかったろうなぁとか。

 

 

 

詳しいことは何も知らないけど、昔の村でも町でも、そのコミュニティーでの流行り廃りはあるとおもっていて、それは一定数の人間が娯楽を生み出したくなるからだとおもう。

 

昔は村の盆踊りも必死に踊りを考えたり、練習したりして「隣村との差」を考えてたんじゃないだろうか。

 

新しい娯楽、面白いと多くの人に思わせる試みは、村一番の人気者や、集団に属した若者達のセンスが大いに問われるのは今の時代と多分変わらないし、娯楽を生み出す事は、永遠に続く一番原始的な文化なんじゃねーかとブツブツ。

 

退屈した生活に必要なのはユーモアや新しいモノコトだと確信する人たちは絶えないのかもしれない。

 

 

 

 

 

テレビやラジオや新聞など、別の地域の情報を伝える文化が生まれる前は、村も町も独自の進化を遂げたと思いたいけど、結局、そこに流れ着いた旅人なんかが伝えては去り、伝えては去りして来たのかもしれない。

 

 

 

 

「娯楽が溢れ過ぎてる」と団塊の世代の人たちは言って、「なるほど」や「確かに」という賛同を得たりした。

 

 

今の大人は「ネットができて、自分の興味のある事をトコトン調べて、突き詰めていけるが、『どう考えてもつまらない物』を見なくてよくなったのは良い事なんだろうか」と言っていた。

 

面白いことや斬新な試みばかりが良いと思わない風潮も必ず現れる。

 

そう考える人たちが、村の人気者ではないけど、センスを受信する能力に長けた若者を先導したりする。

 

結局それは、面白いだけではないという前置きが付いた娯楽なのかもしれない。

 

「俺らはコレで遊んでようぜ」みたいな。

 

 

 

江戸時代だってそういう事を言い合い、言われ合ってるに決まってる。

 

ピラミッドに書かれてあるという「最近の若者は・・」的な話なんでしょ?

 

 

 

 

 

増え続ける娯楽を自分で選べるのはエキサイティングな事だけど、欲望に従って思うままに動くのが意外と難しいのが分かる。

 

勿論そうでない人も居る。

 

 

 

沢山ある中で「これしかない!」が見つかる人は幸せだと思うけど、「アレも楽しそう、これも考えさせられそう」だとなかなかどれを娯楽にするか決めれない。

 

特に決めない人も居て、その人もまた何かを楽しんでるんじゃないか。

 

 

 

 

書かなくて良いことを沢山書いてきた。

 

桜を見たら、ちょっとだけ楽しい気分になれる人間になりたいなぁとおもっていた。

 

 

 

 

 

俵型のハンバーグを食べさせる店に昔行ったことがあって、なんとなくそのことを思い出しながら作ったコロッケ。

 

 

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俵型ええやん。

 

 

 

色々とモヤモヤすることが多くて、ついブログに固まりかけた言葉を垂れ流してしまう。

 

ここのパッキンをもう少し締めてやると何か変わるかも知れんのぉ。