goes to hollywood
「いつか読まなきゃ」と勝手に思っていたリリー・フランキーさんの本を読んでいる。
「読まなきゃ」と勝手に思って、勝手に後手に回していたその理由が読めば読むほど分かってくる。
いつまでもモラトリアム気分で、ノンビリダラダラしたい自分を叱り付けてくれる存在になってくれている。
リリーさんの人から滲み出る感じはパンクとかハードコア。
サブカルチャーやアンダーグラウンドと呼ばれる界隈に居てる人達の持つハードコア感はとてもイビツだ。
リリーさんの場合、分かり合えない場合はお互いに血を流すことになる、というようなハードさではない気がする。
根っこの部分が優しく、繊細で、しかし過剰に暴力的な所がある。
リリーさんの文章は湿っぽい所で育った狂気、怨念に近い雰囲気を纏っているように感じた。
自分は昔どういう風に人と付き合っていたかを忘れている。
ここ数年、ことあるごとのタイミングで変わっていく自分を見てみぬフリしてきた。
対立を恐れ、変わりたくない本音と向き合うのも面倒で、不満を押し込め、諦めていく瞬間が何度もあった。
そこから少しずつ、あの手この手を使って元気を取り戻しながら、自分がどんな人だったか思い出すような作業をしていることがよくあるのだけど、リリーさんの本を読んでいると、そういう馬鹿馬鹿しい思い悩みが一気に吹き飛ぶような爽快さが愉快で、このまま出てる本を全部集めてしまいそうな勢いでハマっている。
今日アマゾンで頼んだ本で5冊目。
久しぶりに凄い勢いで作家読みをしている。
当たり前の事だけど、人はやることなすこと、全て自分で選んでいる。
必要以上に「あとのこと」を気にして、無意味な責任逃れをしたくて、決定権を人に委ねても、結局そうする事を自分で選んでいる。
結果は変わらないけど、1秒でも苦しみを後回しにしたくて無抵抗な顔でその場しのぎを試みたりする。
誰も当たり前に苦労してるし、耐えている。
本人がそう感じていなかったとしても、何処かでジッと我慢してる瞬間がある。
そういう姿が結晶化した物に心が動かされる時がある。