ネオンデーモン
見たい映画が幾らもあって、自分のテンションに合わせてちょこちょこ見ていってる。
昨日見た「ネオンデーモン」はひっさしぶりに訳が分からん映画体験だった。
映画評論家の故・淀川長治さんが「最近の映画は説明が多すぎる」って話をしてたのをこれほど思い出した映画も最近見ていない。
説明がなければこっちで勝手に補完して楽しめばいいんだけど、1回見たくらいでは通り過ぎてしまう事が多すぎて「今のなんや??」となりまくった私が、スモークです。
映画の内容は理解できてない所が多すぎるので映画評ブログさんへどうぞ。
訳が分からないというのは自分にとってそんな悪い意味ではない。
高校、大学生くらいの頃、無理して難解な映画を見て楽しんでいた時期があって、あの時は「なんだか分からない映画」に興味があったから、ややこしければそれだけで満足みたいな見方ができた。大げさに書けば「よし、意味わからん!」みたいな感じで。
今になって分解すると、自分には理解が難しい映画を見ることが優越に変換できた、見終えた達成感だけを得るというか、なにせ本や映画は難解なほど嬉しい時代があった。
あれから10年以上経って身の丈を知ったのか、「今はこういうの欲してないんやなー」とも。
それが少し寂しくもあり、変化として楽しんでいる。
当時はレンタルビデオだけでなく、深夜放送でかかっていた謎だらけの映画に一本一本、ふーっ!と満足げなため息を漏らしていた。
映画が終わり、まるで飲み下せていないままエンドロールが流れる。
「この映画は・・」と興奮状態でガラケーのメール作成画面に感想を打ち込んでいく。
誰に送るわけでもない自己満足の感想が、映画だけでなく、ドキュメント番組を見た時や感動した時にドンドン下書きに溜まっていく。
下書きを書きながらとりあえず外に出て、なんならその辺を散歩しながら、うまい煙草を楽しむ。映画館を出た後、無敵感に包まれるような映画が好きで、そういう映画は見終わった後の煙草がうまかった。
単に煙草を吸ってる描写に操られてるだけかもしれないが、そんなことはどうだっていいのだ。
映画は見終わった後も自分を自己満足に浸らせてくれる素晴らしい表現で、それは今も変わらない。
だから訳が分からない映画はそれはそれで今も良いもんだ。
ということを思い出させてくれてありがとう。