-kemurikikaku-

ママチャリに乗った小っちゃいオッサンの日記

驚きはいつも意の外にある

 

---未だWiFiが復旧せず、パソコンからブログを打てないので、文字のサイズが突然大きくなったりしているブログ---

---はてなブログはなぜこの問題に取り合ってくれないのだろう?---

 

 

 

外に出てみて驚いたのは、家の周辺でも、画面越しに見るような光景が広がっていたこと。

 

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最寄駅の大きな木がまさに根こそぎ持って行かれていたり、

 

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標識系の看板が根元から折れて倒れているなど、こういうのは自分の住む世界と関係のない事だと、ハッキリたかをくくっているところがあったと気付かされた。

テレビやネットで見聞きする出来事と自分は遠い関係にあると思い込んでる所が昔からあるな。

 

 

関西ローカルの情報番組「よーいドン」が、町の偉人やお店を取り上げて讃える「隣の人間国宝」なる表彰状がある。

その表彰状が近所のパン屋さんのレジなんかに置いてあるのを見て、「こんな所に取材が来たんか」と驚くような、テレビに映る景色を信じていない、とまでは言わないけど、関係のない事だと思い込んでる感覚とたぶん同じものだ。

 

これは異国の銃撃戦や戦争もひっくるめての感覚で、最近話題に上がっている脱獄騒ぎの犯人がとても近くの町に来ていた話とも共通している。

自分の身辺には「起こりえない」と強く思いたがっているからこそなんだろう。

蚊帳の外にある安心感とでも言うのか、メディアを通して見聞きする世界から、勝手に距離感を作って安心していたい気持ちが覆される驚き。

 

家の中から窓の外の雨の景色を眺める時は余裕があるけど、今回のような台風では窓が揺れ、少し大きな石でも当たれば窓が割れて、たちまち中の世界と外の世界が繋がる恐怖を感じることになる。

他人事だと思っていたことの渦中に投げ出されるような不安はショッキングな体験だ。

それは事後であっても、災害の爪痕を見て、想像して、震え上がるようなこともあるだろう。だからこそ、次に備えておくこともできる、防衛本能としての驚きなのかもな。

 

 

慣れる感覚が自分に出来るまで、新しいことに対する驚きは恐怖や不安とほぼイコールの関係にあるかもしれない。

大昔の人に手品を見せたら「魔法だ!」と大騒ぎするかもだし、原始人にライターで火をつけて見せたら、みんな逃げ出したり、驚き過ぎて攻撃してくる人も出てくるかもしれない。

でもそれに慣れてしまうと何も感じないどころか、鼻で笑ったりするのかもしれない。

かもしれないし、かもしれない、を思う身近な台風一過だった。

 

 

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こいつぁスゲーや。思わず唸る50年代の音楽。

 

新鮮な驚きを古い物に感じることもある。

物事に慣れた後の驚きは、その先にあった、見逃していたモノへの探究心を刺激されて、良い気持ちになることもできる。

 

昔の音楽も全然漁れてないね。

先は長いが良い趣味を持ったよ。 

 

 

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