パリは燃えているか
また実家のサルベージを行い漫画をいくらか持って帰ってきた。
今回は魚喃(なななん)キリコ、つげ義春。
「なんともわかりやすい本棚だ」と己のミーハー加減にちょっとあきれる。
でもそれが自分で、間違いなく青年期からの血肉となってしまってるのだから仕方ない。
どちらにも共通してある生々しさ、におい立つほどの陰鬱。
魚喃キリコさんの作品から放たれる暗さは、田舎に生きる私にとってはいまだ都会的で、陰鬱というほどでもなく、「かげり」と表現したほうがシックリくる。
バブル後期の東京に生きる、表面上はサバサバした若者達。
しかし恋愛の仕方はいつも変わらないらしく、どこにでもある悲しみが重い。
一方、つげ義春さんの作品も「ねじ式」に代表される、不可解な、シュールという言葉が適当なのか分からないけど、それらの作品に隠れて、同じような男女の悲しみを幾つも描いている。
ときにシリアスに、ときにコミカルに作品のなかでは恋愛沙汰が取り扱われている。
時代背景もなにもかも違う二作者だけど、どちらも息苦しくなる恋愛を描写していて、それはおそらく自伝的というか、実際に起こったことのように感じるから。
辛い恋愛を経験したことのある人の胸に突き刺さってくる、あのリアリズムが痛いほど、漫画を手放せなくさせ、愛おしくおもわせます。。
先日の同時多発テロにおいて、多くの人が「軍靴の足音」を感じたとおもう。
2度と繰り返してはならないと教えてきた人たちが鬼籍に入る中、その人たちから直に教えられた世代がまた同じことを繰り返そうとしている。
ネット上では一部の言いたがり達がパリを哀悼する人や政府に向けて「シリアの紛争のことを君達は無関心だったじゃないか」としきりにほえている。
少なくとも、一般の人に関して私は、仕方がないことだとおもう。
同時に、いまこのタイミングでそういうことを言う人こそ、来月にはクリスマスの予定を組んだり、忘年会の幹事をしてたりするんじゃないかとも、おもう。
別にそうだとして、それもひっくるめて、日本でテロが起きない限り仕方ないとおもう。
世界のほとんどの人たちが「まさかパリであんなことが起きるなんて」と思ってもいなかった事態が起きたんだ。
シリアに比べ「花の都」なんて言われ方でファッション文化なども有名なパリという街で起きたことと、自ら情報を得ようとしなければ内情などわからないシリアの出来事では、感じる現実味に乖離があるのはどうしようもない。
みんなが一斉に恐怖を身近に感じて「戦争なんかやめてくれ」と、祈り始めただけだ。
ニュースは意図的に国民に流す情報を決める。
視聴率の取れる素材を選別して放送するメディアだから、シリアの内戦はたまに特集を組まれるくらいで、まさか火の粉が降りかかるなんて誰も思わなかったのだ。
高校生の頃に起きた貿易センタービルのテロのときも、争いは遠い国で起こっているヒトゴトで、現代人には関係のないものだとほとんどの人が決め付けていた。
今、30代になり、先の漫画から現実味を味わう中で読むつげ義春さんの描く戦後の日本には、暗くのしかかる現実の後処理をさせられる人々のなめた辛酸が伝わってくる。
これだって、分かった気になっているだけだ。
なにもかも不遇で、だれもかれも落胆し、自暴自棄、暴力的になっている様子に今後の世相をおもわずにはいられなかった。
今回のテロを多くの国が宣戦布告と取って行動を開始している。
現在、国境の間で難民の受け入れ拒否とイスラム国との板ばさみに遭っているシリアの人達がいる。受け入れ拒否の理由は、その中にテロリストがいる可能性を否定できないからだという。
もはや世界は戦中なのかもしれない。
そう考えると恐ろしくてたまらない。
私達に未来はあるのだろうか。
この表現が、大げさで、数年後には笑われるようなことであって欲しい。
加古隆クァルテット『パリは燃えているか [Takashi Kako Quartet / Is Paris ...